前回の授業で、「LPPは“全人格”を問題にしている」と説明したところ、聴講していた学生の一人が、「教育という世界で、“全人格”を問題にされるのはたまらなくイヤだ。息がつまってしまう。むしろ、単純に“能力”だけをとりあげてくれた方がいい。」というコメントをくれた。しかし、これはあきらかにLPPにおける「全人格(whole person)」の誤解であり、ヴィゴツキー発達論における「子ども全体(whole child)」の誤解にもつながる話である。「全人格」性とか、「子ども全体」性というのは、人や子どもを「評価」する際の話ではない。まして、「全人教育」というようなある種の「教育的働きかけ」を意味しているわけでもない。その点の誤解はともかく解いておかねばならない。

ヴィゴツキーが「子ども全体」というとき(あるいは、レイヴとウェンガーが「全人格」というとき)、それはその子ども(人)が「アレができる」、「コレができる」ということを個別的に「習得すべき技能項目」をクリアしていくという話として取り上げないということである。「コレができるがアレはできない」、「コレができるからアレができる」、というように、いろいろな「デキルこと」が相互に関連しあっていて、当人にとって、当人の全体として、「しっくりいっていること」(ナルホド、そういうコトかと“納得”できること)として「統一が取れている」ことを意味している。そうでない「付け焼き刃的に」デキル話はそこには入らない。

リアクション